末吉、心痛く思う
カテゴリー: 護國日誌
2016年3月13日 日曜日

こんにちは。

たゆたえども沈まぬ

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)

 

ある方から

『戦時中のことをお話するのもいいですが負の面もお話されるべきでは?』

そう言われたことがあります。

その方のいう負の面とは

『バターン死の行進』

みなさんはご存知でしょうか?

 

端折って説明すると、

昭和十七年一月二日

本間雅晴中将率いる第十四軍がフィリピン・マニラを無血占領。

その間、アメリカ・フィリピン軍はバターン半島とコレヒドール要塞に籠城。

昭和十七年三月十二日

その後コレヒドール要塞を攻撃しフィリピン防衛にあったダグラス・マッカーサーはコレヒドールを脱出。このとき言ったのが『I shall return』

当時のアメリカ兵はI shall return=兵を置き去りにして逃げることと揶揄したそうですがw

昭和十七年四月九日

日本軍がバターン半島を占領。

しかし、捕虜が想像をはるかに超えていた(七万人余)ため、百二十キロ先の捕虜収容所に三日かけて移動。その内徒歩は約四十キロ。(一部トラック、鉄道)移動中に、籠城で栄養失調になり体力もなかったアメリカ・フィリピン軍の兵士が、マラリヤや飢え、疲労で約一万人がバタバタと斃れた。

というのが、バターン死の行進。

ちなみに、

約七万六千人のうち、捕虜は五万四千人。約一万人が斃れたと言われていますが、

監視の日本兵があまりにも少なすぎたので、移動中は簡単に逃亡もできたそうです。

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現在では、捕虜を虐待しただの処刑しただのいろいろなことが真実のように言われ

一方的な見方しかできない人々は謝罪を繰り返し

あたかも日本軍が悪いことをしたという認識をしています。

冒頭のお話もそんな感じですね。

 

こんな話があります。

捕虜の移動中での出来事。

アメリカ兵栄養失調で倒れる

  ↓

日本兵も食料が乏しかったため牛蒡を食べさせ栄養を与える

  ↓

戦後、裁判で木の根を食べさせられたとアメリカ兵が証言

  ↓

命をすくおうと食べさせた日本兵が処刑される

 

他にも、

日本兵=軍人が歩くのは当たり前。

アメリカ兵=軍人はトラックで移動するのが当たり前。

  ↓

日本兵=トラックは少ないし、歩くのに支障のない距離だ。

アメリカ兵=え~っ?こんな距離歩くの?マジかよ~wトラックじゃなきゃ絶対無理w

  ↓

戦後の裁判で、とんでもない距離を歩かされたとアメリカ兵が証言

  ↓

その指揮をとっていた日本兵が処刑される

 

日本とアメリカの食文化の違い、軍人精神の違いによって

罪なき罪を背負わされ

命を奪われた同胞の無念はいかばかりか・・・

それを恰も悪者呼ばわりする日本人は如何なものか・・・

英霊の心痛、いかばかりか・・・。

 

末吉、

冒頭のようなお話を聞くたびに

心が痛くてたまりませんw

 

 

~今日の予定~

①特にありません。

 

~明日の予定~

①末吉、出張です

 

~明後日の予定~

①中旬祭(神社祭事)

②末吉、会議です(更新できませんw)

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