末吉、居留守を語る
カテゴリー: 護國日誌
2011年12月6日 火曜日

『元気な日本をとりもどそう!』

  

 

おはようございます、

『人生楽笑』末吉です(⌒▽⌒)

 

お正月を迎えるにあたり、

境内では少しずつ準備が進んでおります。

 

末吉も、

年内にやっつけなければいけない書類が多々ありますので、

今日は居留守を使います。

 

御用の方は、

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ご意見、ご要望を送信してくださいね。

 

ただし、

イタズラはだめですよ~。。。

  

 

~今日の予定~

 ①何もありません

   

~明日の予定~

 ①大安です

 ②大雪です

   

~明後日の予定~

 ①大東亜戦争開戦70年

 ②末吉、お休みです

コメント / トラックバック2件

  1. 匿名 より:

    明日は末吉様も書いておられるように、真珠湾攻撃から丁度70年目の日です。
    この日を前に、攻撃に大変大きな役割を果たした愛媛出身の方をご紹介します。(関連本には出てくるのでご存知の方もおられると思います)その方は吉川猛夫さんといいます。(平成5年にご逝去)ご出身は、今の伊予鉄横河原線の終点の横河原駅の近く。(旧温泉郡重信町 今の東温市)明治45年に生まれ、松山中学を経て昭和5年に海軍兵学校に入学。(海兵61期)卒業後は艦船勤務などの勤務を経て、(一時体調も崩されたようです)昭和16年3月に、大命を受けハワイのホノルル領事館に赴任されます。大命とは、ハワイの米海軍太平洋艦隊の動向を詳しく調べてあげて、本国へ報告するという、いわゆる諜報活動です。吉川さんは「森村正」と名を変えて、領事館の一等書記生として開戦直前まで艦船の数や種類、それぞれの動きなど詳細に本国へ送り続けました。これが、真珠湾攻撃成功に大きな役割を果たしたといわれています。活動の拠点のひとつとなったのが、真珠湾を見下ろす高台のようなところにあった日本料亭「春潮楼」で、戦後は「夏の家」と名を変えたそうですが、その女将さんが藤原タネヨさん(今は故人)という、偶然にも同じ愛媛出身の方で同郷ということで、陰ながら吉川さんの活動を支えられたというエピソードも伝えられています。戦後吉川さんは実家に戻り、水道店などを営みながら町議会議員もされたようです。また、昭和38年には自身のこのときの体験を記した『東の風、雨―真珠湾スパイの回想』を講談社から刊行されました。
    真珠湾攻撃で亡くなった愛媛出身の方もいらっしゃいます。この英霊の方々とあわせ、攻撃に関わった吉川さんや、藤原さんなど県人の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

  2. 末吉 より:

    匿名様
     
    コメントありがとうございます。
     
    そのコメントを見て、
    大変驚きました!
    とある本でそのような活動をされていた方がいたのは知っておりましたが、まさか愛媛県御出身の方とはおもいませんでした。
    同郷ながら知らなかったことに、
    末吉、恥ずかしさを覚えます。
     
    おっしゃるように、
    愛媛県出身の方が、当時あちこちで活躍されている・・・
    それを知らない方々が非常に多いのではないでしょうか。
    大東亜戦争開戦70年の節目に、
    末吉も含め、もっと愛媛県民について見つめなおす必要がありますね。

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