末吉、討ち入りの日に思う
カテゴリー: 護國日誌
2017年12月14日 木曜日

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

今朝、

今シーズン初の零度の温度計を見ました。

今年の冬は例年以上に寒いと予報でも言っておりますが

確かに寒い。

底冷えするなどと言いますが

身体の芯から冷え切ってしまうように感じます。

皆さん

呉々も風邪などひかないよう気を付けてくださいね。

 

さて

本日は

『赤穂浪士討ち入りの日』

年配の方々には『忠臣蔵』と言ったほうが解りやすいかもしれませんね。

今では『赤穂事件』と言うそうです。

 

赤穂事件=元禄十四年三月十四日(旧四月二十一日)江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対し刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍德川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。対して吉良義央には何のお咎めもなかった。即日切腹には、当時の城中にさえ批判の空気が存在した。

喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。

その後、亡き主君浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下四十七人が吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件。事件の理由は忠実としては不明であるが、赤穂事件を扱ったドラマや映画等では、淺野内匠頭が吉良上野介から要求された賄賂を拒否した事で起きた、吉良による嫌がらせが原因として描かれている。(ウィキペディア等抜粋)

 

松山藩の江戸屋敷では十名の浪士が江戸屋敷に預けられました。

そのうち大高源吾と木村岡右衛門の遺髪が、二人を介錯した藩士により

末広町の興聖寺に埋葬されたと言われています。

後にこの事を知った播州赤穂の方々が赤穂特産の「ハゼの木」を贈り、感謝の気持ちを表したとのこと。このハゼの木は、当時三十本程植えられていたそうですが、現在は道路拡張や護岸工事により一本のみとなっているそうです。ちなみに、このハゼの木、樹齢は三百年。道後公園南外堀の道路沿いに由来看板と記念碑とともに今でも立っています。

 

そんな赤穂の討ち入りの日、

当日とは世の中が全く違いますが、

いい人材を育てること、

是非心掛けて下さいね。

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