こんにちは。
人生楽笑(じんせいらくしょう)末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)
本日は
靖國神社御創建百四十五年(明治二年)
御神前にて遥か九段の御社を遥拝致しました。
さて本日午前11時20分から
愛媛県富山丸戦没者遺族会慰霊祭が執り行われました。
修祓、
祝詞奏上ののち、
お代表であります
愛媛県富山丸戦没者遺族会 芳野勝三会長様、
副会長 佐々木利王様、
伊藤一俊様、
篠原茂徳様、
久留島光子様、
是澤靖子様、
本多イチヱ様、
飯塚喜久枝様の順で
玉串が奉奠され、
70回目の御命日に、
慰霊顕彰の誠を捧げられました。
芳野会長様のご挨拶の中で、
富山丸沈没の経緯をお話しされました。
『輸送船富山丸の戦没記録と遺族のあゆみ』(富山丸遺族会全国連合会)
によると、
輸送船富山丸は七千トンほどの大型輸送船で、
独立混成第四四旅団、独立混成第四五旅団、第三二軍兵器勤務隊、第一二九野戦飛行場設定隊、宮古島陸軍病院約4600名が乗船したとあります。
物資は、
大砲八門、重機関銃、臼砲、速射砲、トラック、筏、木材、竹筒、弾薬、ダイナマイト、ガソリンドラム缶などであり、
同時に人を輸送するのですから、
坪あたり11名の割だったそうです。
昭和19年6月29日午前7時過ぎ、
このような陣形を組んだ船団は
一路沖縄へと向かっておりました。
航路は次の通りです。
その刹那、
米軍潜水艦から魚雷が発射され、
轟音とともに富山丸に命中。
続けざまに二発、計三発の魚雷を被り、
船体は真っ二つになり轟沈。
海面に投げ出された将兵は浮遊するものにつかまりつつ、
徳之島に向かい必至で泳いだそうです。
しかし、
輸送中であったドラム缶に引火し、
海面に漏れ出したガソリンで一面火の海、
あちこちで誘爆しながら多くの将兵を巻き込み、
第四四旅団第一歩兵隊 六三五名
第四四旅団第二歩兵隊 七六二名
第四四旅団砲兵隊 一五二名
第四四旅団工兵隊 六三名
第四五旅団歩兵二九八大隊 三二四名
第四五旅団歩兵二九九大隊 四一九名
第四五旅団歩兵三〇〇大隊 四〇七名
第四五旅団歩兵三〇一大隊 四〇四名
第四五旅団工兵隊 一五〇名
第三二軍兵器勤務隊 一七一名
一二九野戦飛行場設定隊 一二七名
宮古島陸軍病院 二名
計 三六一六名(船舶輸送間における遭難部隊資料 陸軍)
という
船史上前代未聞の多大な犠牲者を出しました。
散り散りになった輸送船団が戻ってきたのは数時間後。
その間、徳之島から救助活動のため漁船が出動、
古仁屋の港へ何往復もしました。
救助者は約一割。
無傷の将兵は乗船のわずか一パーセントだったそうです。
愛媛県富山丸戦没者遺族会芳野勝三会長様にお話しをお聞きしました。
『会長の立場からしてみれば、
このようなことが二度と起こらないように、その悲惨さを若い世代に知ってもらいたい。
その反面遺族の立場からしてみれば、
そのような情景を想像すると、
自分の身内がそんな過酷な状況下で、惨い姿で最後を遂げたかと思うと、
正直、もうやめてほしいと言いたい部分もあるんです。
戦後七十年、その話はもういいじゃないかと言う自分もいるんです。
今なお、本当に複雑な気持ちなんです。』
富山丸沈没から丁度七十年。
御遺族様にとって、戦争はいつまでたっても終わらないのかもしれません。
~本日の予定~
①富山丸戦歿者遺族会慰霊祭 午前11時20分
~明日の予定~
①合同御霊祭(神社祭事)
②夏越祭(神社祭事)
~明後日の予定~
①月旦際(神社祭事)
②第833回献花祭 午前9時~