末吉、玉井浅一氏を記す
カテゴリー: 護國日誌
2013年2月17日 日曜日

愛媛縣護國神社裏千家流茶道教室

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第三十八回稽古日 2月23日 13時~17時(森光宗芳先生)

第三十九回稽古日 2月24日 10時~15時(江戸宗禮先生)

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末吉、刀匠を記す

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こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)

 

ちょっと調べものをしていた時のこと。

散乱王と化した末吉が、

ないなぁ~wwwを連呼しているとき、

『玉井浅一』という名を目にしました。

ご存知の方、いらっしゃるでしょうか?

 

愛媛県出身、海軍兵学校第52期、最終階級は海軍大佐。

数々の重職を歴任された中に

二〇一航空隊副長と記されていました。

もしやと思い、パソコンで検索すると・・・ありました。

(写真はウィキペディア抜粋 日映・稲垣浩邦カメラマンにより10月20日に撮影)

背中を向けている左が玉井副長、右が大西長官です。

そして、

奥左が関隊長以下敷島隊員。

 

そう、

日本で初めて公式特攻が行われた、その見送る側の人なのであります。

  

その時の経緯を簡単に書くと、

昭和19年10月19日夕刻フィリピンマバラカット飛行場第二〇一航空隊本部での会議で、大西瀧治郎長官が

『米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう』

この会議の前日、山本栄司令が飛行機の着陸失敗により骨折、不在でしたので、副長である玉井氏が基地の一切を任されておりました。

時間の猶予をもらい、先任飛行隊長指宿、横川らと相談し決行を決意します。

当初、第三〇六航空隊長で関の同期である菅野直(かんのなおし)が候補となっていましたが、日本本土に航空機受領のため不在。

そのため関を攻撃隊指揮官に推挙したのです。

そして

昭和19年10月25日、日本で初めての公式特攻がなされました。

 

戦後、

松山市針田町にある日蓮宗瑞応寺の住職となった玉井浅一(法名 枢遵院日覚)は、

送り出した特攻隊員の名前を石に書き仏壇に供えて供養し続ける傍ら、

住民のために戒名を無料で書いたりされ、

只管祈るばかりだったそうです。

 

昭和22年、関行男命の母サカエ氏を訪ね、こう言われたそうです。

『自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいるのです。若いころ、空母の艦首に激突した経験があり、散華された部下たちの張りつめた恐ろしさは少しはわかるような気がします。できることは、せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈るしかありません。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが。』

 

送る側も送られる側も、愛媛県出身の方・・・。

遠く異国に散った関行男命、

復員され只管祈った玉井浅一氏、

夫々の胸中はいかばかりか・・・

 

終戦直後、

大西長官をはじめ多くの方々がその責任をとり自決されました。

しかし、

多くの苦悩を抱えつつ生きることのほうがもっと辛く酷なことではないでしょうか?

 

 

 

安易に保守=右翼=戦争賛美と安易な発想をしないで貰いたい。

大東亜戦争を否定し、諸外国に申し訳ないなどと言わないで貰いたい。

 

家族の大切さ、

国日本の大切さ、

そしてなにより、

生命の大切さと尊さ、

生きることの大切さと難しさを一番知っているのは、

先人たちなのですから。

 

 

~本日の予定~

①第758回 献謡祭 午後1時~

②椿まつり二日目(於 伊豫豆比古命神社)

 

~明日の予定~

①椿まつり後宮祭(於 伊豫豆比古命神社)

  

~明後日の予定~

①愛媛銀行有志清掃奉仕 午前9時~

②靖國神社 小松主典正式参拝 午後3時~

 

コメント / トラックバック6件

  1. 北条ヒロシ より:

    敷島隊特攻秘話、興味深く読ませていただきました。
    西条・楢本神社の五軍神ですね。
    昭和16年12月8日の日米開戦、真珠湾攻撃は人間魚雷、
    伊方町三机の九軍神ですね。

  2. S より:

    末吉様
    玉井浅一さんのことを、よくぞ
    ご紹介していただき、心から感謝感激です。
    関中佐のことは、特攻に関心のある方にはよく知られて
    いますが、故郷松山でも玉井さんのことは全く知られていません。特攻を見送ったという意味で、
    命令した捉えられ戦後は冷たい視線で見られがちです。
    平成12年に玉井さんの戦中戦後の人生をしり、
    瑞応寺にも行きました。調べもしました。
    その結論は、特攻の是非は別にして、
    玉井さん特攻や英霊全ての慰霊に全身全霊を
    尽くされたということでした。

    以下にそのことを当時ある雑誌に寄稿したものです。
    宜しければご紹介下さい。これには神社の前宮司様の
    波爾先生にご指導を頂きました。懐かしい思い出です。
    また長くてすみません。この度は本当に素晴らしいもの
    で有難うございました。

    〈関大尉を見送った故郷の人-海軍中佐・玉井浅一氏の戦後〉

     関行男大尉(西条市出身)は、神風特別攻撃隊の先陣を切った人として県内でもよく知られ、特攻隊に関する文献にも紹介されていますので、ご存知の方もおられると思います。ところが、昭和十九年十月二十五日、関大尉を現地の比島マバラカット基地で、関大尉を隊長とする神風特攻隊敷島隊の編成に関わり、関大尉の出撃を涙ながらに見送った人に、関中佐と同じ愛媛県出身の方がいたことをご存知でしょうか。
     その方は、松山市西堀端出身の玉井浅一さんといいます。玉井さんは、松山中学を卒業後、海軍兵学校に入り、大正十三年に五十二期生として卒業されます。同期生には、元参議院議員で航空幕僚長も歴任した源田実氏、開戦に火ぶたを切った真珠湾攻撃での攻撃隊長・淵田美津雄氏、それに昭和天皇の弟君の故高松宮殿下など、大東亜戦争で海軍の作戦立案や前線の指揮等で活躍された幹部を多く輩出しています。兵学校を卒業された後、戦艦「扶桑」の乗組員として勤務され、その後は海軍航空へと移られ、終戦まで航空隊の幹部として、またパイロットの教育養成と航空一筋で過ごされました。昭和十九年には南方の島々で玉砕が相次ぐなど、戦局は次第に逼迫し、玉井さんは海軍中佐で関大尉が所属していた比島の二○一航空隊副長として、激しい航空戦を戦っていました。そして十月二十 五日、関大尉出撃の日を迎えます。この時の模様については紙面の都合で割愛しますが、祖国の為のやむにやまれぬ出撃とはいえ、同じ故郷・愛媛出身の関大尉を見送る玉井さんの心境に想いを致すと胸が痛みます。
     玉井さんが復員して松山に帰ってきたのは、昭和二十年の十二月三十一日でした。帰郷すると早速、小学校の用務員をしていた関大尉のお母様を訪ね、関大尉出撃の様子などを詳しく説明して、上官として心からお詫びをして許しを乞い、その後、度々西条市のお母様を訪れ慰めていたとのことです。多くの部下を送り出した玉井さんは、戦後、漫然と余生を送ることは出来ませんでした。仏門に入り身延山で修業を積み、郷里松山の瑞宝寺の住職となって、部下の御霊を弔うことに余生を捧げられました。そして昭和三十九年十二月、国のために最前線で戦い、慰霊一筋に生きた生涯を終えます。関大尉を見送ってちょうど二十年目。玉井さんの御遺族は今も、毎年十月二十五日の関大尉以下五人の敷島隊の慰霊祭には必ず出席され、御霊を慰めておられます。
     経済繁栄を謳歌する現代日本で、特攻隊員やましてそれを見送った人に、どれだけの人が心を寄せて来たでしょうか。地位や名誉など一切の私心を捨てて、誰にも知られることなく慰霊に尽くした人を、身近な郷土の誇りある歴史として蘇らせ語り伝えて行くことが、人々に慰霊の心を回復し、日本の心を取り戻してゆく灯火、道 標のような気が致します。

  3. 末吉 より:

    北条ヒロシ様
     
    おはようございます。
    おっしゃる通り
    五軍神のお一人が関中佐。
    それを見送られた方が玉井浅一氏です。
    異国の地で同郷のものどうしが何を語られたのでしょう?
    そして、
    どのようなお気持ちで送り送られたのでしょう?

  4. 末吉 より:

    S様
     
    おはようございます。
    以前にもお話させて頂いたとき、
    『もっと県内の方々のことを知って頂きたい』
    とおっしゃられてましたから、
    絶対にコメントを頂戴できると思っておりました。
     
    おっしゃる通り、
    誰にお聞きしてもご存知の方はほとんどいらっしゃいません。
    恥ずかしながら、
    末吉も細かいところまでは存じておりませんでした。
    改めて
    玉井大佐をはじめ、
    本当に素晴らしい方々がご活躍されていたことを知り、
    そのような方々のもとでご奉仕できることを誇りに思います。
     
    玉井大佐は、
    戦後、文字通り身を粉にして慰霊顕彰されていたとのこと、
    末吉のお手本のような方であります。
    今後、末吉も負けないよう精一杯ご奉仕に邁進したいと心新たに致しました。
     
    また、
    先代波爾宮司ご教示の寄稿文、
    じっくり拝見させて頂きました。
    本当に素晴らしい文章でありました。
    また一つ勉強させて頂きました。
    本当にありがとうございました。

  5. ねこ より:

    玉井大佐の話を、本日NHKで拝見いたしました。
    玉井大佐も、命令を受け、特攻隊員を送らねばならなかった
    心の内、葛藤もおありでしたでしょうし
    戦後、心ない人々からの仕打ちや
    自責の念に駆られ、部下の追悼のために余生を送られたとのこと
    心が痛みます。
    責任取って自決された方々も苦しかったでしょうが
    生きて責任を果たされることも、苦しいことと思います。
    玉井大佐のご冥福をお祈りいたします。

  6. 末吉 より:

    ねこ様
     
    はじめまして。
    閲覧並びにコメント、ありがとうございます。
    投稿担当の末吉(すえきち)と申します。
     
    さて、
    NHKで玉井氏の話をしていたとのことですが、
    末吉はあれやこれやで見逃してしまいましたw
    本当に残念ですw
     
    復員された方のお話や、
    戦争体験記などを読んでいますと、
    『先に死んでいったもののほうが楽だったなぁ』
    という由の言葉が出てきます。
    戦死するよりも、生きるほうが難しい。
     
    それは、
    玉井氏もよくおわかりだったのではないでしょうか?
    だからこそ、
    慰霊をするために住職となり、
    生涯をかけて見送ったものを背負い続けられたのだと思います。
     
    間もなく終戦の日ですが、
    復員された方々にとって、
    戦争は未だ終わってないのかもしれません。

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