こんにちは、末吉です(⌒▽⌒)
テレビでインスタントコーヒーが美味しく飲めるサーバーを購入しました。
連日、飲みすぎで、ちょっと胃が・・・
<続きです>
大西閣下の命を受け、出撃された関中佐。
出撃当時、23歳。。。
ご母堂様と奥様との3人家族だったそうです。
ご家族の話は機会があれば・・・ということに。。。
当社にご参拝された方が関中佐と同郷で、
出撃前の休暇で帰郷された様子を語って下さいました。
『関さんはなぁ、、ワシが所用で駅のホームでおったら、
丁度休暇で帰ってきたとこらしくてな、、、
一言挨拶して、そのまま家に向かってったよ。
最後に関さんを見たんは、お伊曾乃さん(伊曾乃神社)の前を通った時でな、
夕暮れにたった一人でお参りしとった。
なんや、長いこと手を合わせてなぁ・・・
もう、戻って来れん事を感じとったんかもしれん。
なんせ、小学校ではワシが先輩、関さんは後輩やったけぇ、
関さんのことはよぅ知っとるんよ。。。』
∑( ̄□ ̄)ナント!!
実はこの方、関中佐の同郷どころか、先輩でした。。。
さて、戦況は悪化の一途をたどりつつある、昭和19年、
フィリピン沖では米連合軍が、
『I shall return 』
という言葉を残し撤退した、
ダグラス・マッカーサーの言葉通り、
フィリピン奪還にむけ、作戦を遂行していました。
『1週間でいいから、敵空母の甲板を使えないようにできないか?』
海軍の期待を一身に背負った大西閣下が、
フィリピンのマバラカット基地へ到着した時、そう言われたそうです。
当時、制空権は圧倒的物量により、米連合軍にありました。
そこで、空母を一時使用不可能な状態にし、
連合艦隊が米海軍を壊滅させるという作戦だったです。
余談ですが、このとき、彼の有名な『戦艦大和』『戦艦武蔵』も出撃しており、
戦艦武蔵は、19年10月24日に激戦の末沈没しました。
このレイテ沖海戦は、
我が大日本帝國海軍の主力艦隊を始め、ほぼ総力をあげての戦いだったのですが、
この戦いで、事実上壊滅状態となってしまいます。
ただ、唯一の戦果を挙げたのが、このときに始まった、
『零戦特攻』
だったのです。
250キロ爆弾を搭載した特攻機(関中佐は零戦)で、
上空から降下し、水面に平行して超低空飛行で、
敵艦の真横から突っ込む。。。
現代から考えれば、非人道的な作戦です。
それは、当時の大西閣下も予言しておられました。
当初から
『特攻は統帥の外道である』
とまで言い切り、最後まで海軍に意見したのですが、
結局、それも受け入れられず、その責任の全てを一人が受ける形となってしまったのです。
「わが声価は棺を覆うて定まらず。 百年の後、また知己なからんとす。」
当時の部下にそう言った通り、
現在でも、大西閣下の立場は賛否分かれるところです。
今晩は、末吉さん
勉強になりました。
(無知で御免なさいです。 穴があったら入りたい。)
特攻って、そんなに沢山あったのですね。 末吉さん、もしもブロッケンの父さんが生きていたら、きっと話が合うと思います。
ブロッケンの父さんも、戦争の事や、当時の上に立たれる方々の事など、ブロッケンには、解りませんが。 末吉さんとなら、うんうん、頷いて、話しを聴いている事と思います。
(父さんに捕まると、 仕事が出来ませんね。) 其ほど、好きでした。
末吉さんも、沢山本を読み、勉強してるんですね。 凄いですね。 ブロッケン、 頭が下がります。
又、解らない事がありましたら、教えて下さいね。
(*^_^*)
ブロッケンの妖怪様
こんにちわ~ヾ(@^▽^@)ノ
いえいえ、末吉も言うほど勉強なんてしてないですよ。。。
お父上様も非常にお詳しい方だったそうですが、
一昔前であれば、
戦争を体験されている方、
その方々がお身内におられるご家族様は、
恐らくそれが当たり前だったのでしょうね。
しかし、
今は、戦争の話しさえ憚られる昨今www
なんとも、非常に悲しい現実です。
当時、身を犠牲にして、
この日本を護って下さった方々に対して、
本当に申し訳なく思います。。。
ブロッケンの妖怪様も、
末吉のようなブログなどから、
先ずは少しでも興味を持っていただければ幸いです。。。