末吉、有難く思う
カテゴリー: 護國日誌
2017年6月24日 土曜日 コメントはまだありません »

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

末吉が奉職して数カ月たったころ、

当時の宮司さんのお付きで

ある会議に出席させて戴いたことがありました。

いらっしゃるのは全国の宮司さんばかり。

末吉はというと、只々オロオロするのがお仕事状態。

まるで

ネコの中のネズミ状態ですw

(別に食べられるわけではないのですがw)

 

会議が終わり引続いて懇親会になったとき、

順番にご挨拶をさせて戴いておりました。

すると

O禰宜さん(当時)がお声をかけて下さいました。

 

O禰宜さん『末吉さんですね。ご出身はどちらですか?ご奉仕して何年目ですか?ご実家も神社ですか?』

いろいろお話をして下さるのですが、

本来は末吉からご挨拶にお伺いしなければならない大先輩。

そのような雲の上の方にお声がけ戴くなど

とんでもないことなんです。

(末吉、オワッタw)

 

でもそんな末吉をよそに

気さくにお話をしてくださいました。

末吉は、とにかく質問にお答えするのが精いっぱいで

なんと答えたかはっきり覚えておりませんw

(今更ながら失礼なことを言わなかったかな?)

しかし、

O禰宜さん『末吉さん世代の方々が、英霊の想いを後世に伝えて下さいね。』

その言葉だけははっきり覚えています。

 

それ以降、

いろいろな場面でお会いするたびに

『お変わりありませんか?がんばってますか?』

必ずお声がけ下さっておりました。

時には

『○○の件について末吉さんはどう思いますか?』

末吉のような日の浅い者でも

一人の神職として意見を聞いて下さいました。

 

その後、権宮司になられご奉仕されておられましたが、

先般、四十四年の御奉仕を終えられたとお伺い致しました。

ご挨拶もできず大変申し訳なく思っておりますが、

末吉、

ご奉仕されていた御姿、

お聞きしたお話を肝に銘じ

これからも精一杯英霊のためにご奉仕させて戴きます。

 

O権宮司さん、

長い間ご奉仕お疲れ様でした。

そして

末吉のような者にまで

いつもお気遣いを戴き

本当に有難うございました。

末吉、沖縄戦終結の日に思う
カテゴリー: 護國日誌
2017年6月23日 金曜日 コメントはまだありません »

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

今日は沖縄戦終結の日。

地方紙にどのような記事が書かれているのか

朝一番で熟読しました・・・・・が、

残念ながら、

一面記事は

東京都議選の告示や

道後温泉本館修復

愛媛国体のことでした。

 

沖縄戦については

当社に縁の深い方が書かれた

『沖縄特攻を見送った』

という記事が投稿欄にあり、

大変嬉しく思いました。

 

また、

当社の御祭神で

昭和十六年十二月八日日米開戦の日に

空母飛龍から飛び立ち攻撃に参加した

今治市御出身の西開地重徳命の遺品が

弟様に返還されたという嬉しい記事も。

 

しかし、

沖縄戦に関して、

当時の様子や

郷土連隊が沖縄で奮戦されたこと、

そして終焉を迎えたこと、

本土や沖縄を守るために

愛媛県の方々がどれほど尽力されたか

そのようなことは皆無でした。

 

畏くも天皇陛下におかせられましては、

昭和五十六年八月七日皇太子殿下であらせられた当時、

記者会見の中で、

日本人として忘れてはならない四つの日として

八月十五日終戦の日

八月六日広島原爆投下の日

八月九日長崎原爆投下の日

そして

六月二十三日沖縄戦終結の日

を挙げられました。

 

沖縄県体育協会のホームページによると

その沿革の中に

『昭和27年国民体育大会に初参加。米国の施政権下にあって、第7回国民体育大会(福島県・宮城県・山形県開催)に初めて沖縄選手団11名(陸上競技)が参加した。祖国日本から分離された状況の中において、国体参加の意義は極めて大きく、それを契機にスポーツの振興は飛躍的に進展した。』(財団法人沖縄県体育協会HPより抜粋)

と書かれています。

その翌年の昭和二十八年には、

第八回国民体育大会が愛媛県で開催され

全国四十七都道府県の方々がその技を競い合いました。

 

それから六十四年。

畏くも天皇皇后両陛下の行幸啓、御臨席を仰ぎ

開催される予定の愛媛国体までちょうど百日。

 

天皇陛下が平成二十四年のお誕生日に際し

『~前略~沖縄は,いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに日本全体の人が,皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないかと思っています。地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことはほかの地域ではないわけです。そのことなども,段々時がたつと忘れられていくということが心配されます。やはり,これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは,日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています。』(宮内庁HPより抜粋)

このように述べられました。

 

そのことを

日本人一人ひとりがしっかりと受け止め

沖縄戦で奮戦し

散華された約二十万人の方々に

只々感謝と安鎮を願って戴ければと思います。

 

御神前を通し拝礼、

並びに沖縄方面にむけ遥拝。

 

末吉、徒然に思う
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2017年6月22日 木曜日 コメントはまだありません »

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉ですヾ(@^▽^@)ノ

 

ようやく梅雨らしくなってきましたが、

やはり気になるのが災害ですね。

増水した川の様子を見に行ったり

危険な箇所への立ち入りは

決してしないようにして下さいね。

 

さて

この時期といえばはやりホタル。

既に市内近郊では六月初旬に

ホタルのシーズンは終わっていますが

今は山間部だそうですよ。

でも決して捕まえないでくださいね。

 

そういえば

末吉の田舎も梅雨の真っ只中だったなあ。

大袈裟でもなんでもなく

映画火垂るの墓の一コマで出てくるくらい

当時はホタルが飛んでいました。

ガキンチョ末吉でも

網を持って一振り、二振りすると

数匹とれるくらいでしたから、

今思うと

とんでもない数だったんだろうなあ。

 

先日田舎に帰って

その場所に行ってみたのですが、

河川工事や道路整備で

景色は一変していました。

なんとなく残念ですが、

我々が生きていく中で

自然災害を未然に防ぐには

絶対にしておかなければならないこと。

しかし同時に

我々人間の手で

生態系を壊してしまうことも事実です。

 

梅雨空を見ながら

『昔はよかった』

遠い記憶が

ホタルの灯のように

断片的に思い起こされる末吉でした。

末吉、正式参拝に思う
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2017年6月21日 水曜日 コメントはまだありません »

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人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

六月十九日午後二時から

広島市遺族会の皆様方の正式参拝が執り行われました。

1

先ずは御本殿にご参集戴き

修祓の後、

広島市遺族会 山田義春会長様が玉串を奉奠、

3

遺族会皆様の列拝に続き、

同行された広島護國神社 松下和正権禰宜様に

玉串を奉奠戴きました。

 

その後

額田宮司が由緒の説明、

場所を移動して御幸殿の説明を致しました。

4

また

時間の都合上、駆け足にはなりましたが、

当社の境内並びに慰霊碑を参拝戴き、

皆様方にご説明申し上げました。

 

広島は

佐々木至一命や

源田実元大佐などの軍人から

やはり、

東洋一の軍港であった呉海軍工廠を中心とし

さらには瀬戸内海で向かい合わせということもあり

愛媛とは非常に縁の深い街です。

 

5

皆様方がご参拝戴きましたこと、

英霊も大変お喜びになられておられるでしょう。

広島市遺族会の皆様並びに

広島護國神社の皆様、

ご参拝、有難う御座いました。

末吉、第八一〇回献謡祭に思う
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2017年6月19日 月曜日 コメントはまだありません »

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人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

昨日は第三日曜日。

第八一〇回献謡祭が執り行われました。

修祓の後、

額田宮司の祝詞奏上。

1

御奉納は

シテ 西本千代喜氏。

2

題目は『賀茂』

御奉納の後、

玉串を奉奠戴き、

皆様でご拝礼を戴きました。

ご奉仕、有難う御座いました。

3

また

昭和十九年の本日は

『マリアナ沖海戦』の日。

大日本帝国海軍の正規空母を失い、

サイパン島、テニアン島の玉砕の引き金となり、

さらには

航空機特攻の要因ともなりました。

その一年後には沖縄決戦。

 

英霊となられた方々に

只々額づくのみであります(拝)

末吉、父の日に思う
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2017年6月18日 日曜日 コメントはまだありません »

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末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

みなさん、知ってますか?

父の日の由来。

一九〇九年、アメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドットが男手一つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生日である六月に拝礼をしてもらったことがきっかけと言われている。

一九六六年、アメリカ合衆国第三六大統領リンドン・ジョンソンは父の日を称賛する大統領告示を発し、六月の第三日予備を父の日に定めた。

一九七二年、アメリカでは正式に国の記念日に制定される。

父の日の花はバラ。父が健在の者は赤いバラ、亡くなった者は白いバラを身に着けたと伝えられている。

(ウィキペディアから抜粋)

そして、

このことが日本にも伝わり今日の父の日となりました。

 

 

厳しいお父さん、

優しいお父さん、

無口なお父さん、

いろんなお父さんがいらっしゃいます。

そんなお父さんをいろいろ評価するでしょう。

 

しかし、

みなさんが生まれたとき、

誰よりも喜んだのがお父さんでしょう。

そして

誰よりも働いたのがお父さんでしょう。

 

そんなお父さんに

今日は感謝しましょうね(⌒▽⌒)

末吉、嬉しく思う
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2017年6月17日 土曜日 コメントはまだありません »

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人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

今朝、嬉しいことがありました。

 

朝拝が終わり、

今日の予定を確認していたところ、

ご参拝戴いた方がいらっしゃいました。

 

お話をお伺いすると、

学生時代を愛媛で過ごされたそうですが、

ある護國神社に関わるようになり

当社にお参りをしてなかったことを

ずっと気にしておられたそうです。

そして本日、

わざわざご来県戴き、

御神前で『報恩感謝』の御奉告をさせて戴きました。

その後、

僭越ながら

末吉が境内をご案内させて戴きました。

 

『これでスッキリしました!』

 

末吉の拙いご奉仕にも拘わらず

そうおっしゃって戴きました。

 

三十年以上も想い続け念願かなった今日から

更なる御祭神のご加護が多々ございますよう

心から御祈念申し上げます。

 

松嶋様、

本日のご参拝、有難う御座いました。

末吉、和菓子の日に思う
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2017年6月16日 金曜日 コメントはまだありません »

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

今日も雨が降るだの降らないだのと

まるで雨を待つカエルの如く

毎日空を見上げています。

 

さて今日は、

全国和菓子協会が昭和五十四年 に制定した『和菓子の日』

嘉祥(かじょう)元年六月十六日、

和菓子や餅を神前に供え

疫病退散を祈念したという故事に由来したもので、

『嘉祥の日』『嘉祥菓子の日』とも言い

室町から明治まで続いた行事だそうです。

 

しかし時代とともにその風習は衰退し、

菓子は七種類(十六日の一と六を足した数)となりました。

 

っといいますか、

和菓子十六種類はなかなか食べれませんし、

七種類でも

かなりの量になっちゃいますよねw

 

でも

一言で和菓子と言っても多種多様。

食べて楽しむだけでなく、

殊、上生菓子と呼ばれるものは

見た目の美しさも素晴らしく、

まさに職人さんの製法技法を駆使した一品。

これこそ

日本の文化として継承していくべきものでしょう。

 

実はこの和菓子の日、

末吉が幼い頃に習っていた

お茶の先生に教えて戴いてたものです。

 

 (o・_・o)ン?

 

末吉がお茶?

そうなんです、

末吉ほんのちょっとだけ茶道の心得があるんです。

なぜなら、

『男たるもの茶道の心得がないとダメだ!』

と両親に言われ厳しく・・・

なんて、そんな深い理由があるわけではなく、

単に

『じっと座ることを知らず、落ち着きがないから』

という悩みに悩んだ両親の苦肉の策だったみたいですw

 

いずれにしても

永井先生、

教えて下さったこと、

ちゃんと覚えてますよ(⌒▽⌒)

末吉、中日に思う
カテゴリー: 護國日誌
2017年6月15日 木曜日 コメントはまだありません »

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

本日は月の中日。

午前八時三十分から

中旬祭(月次祭)が執り行われました。

 

梅雨とは思えない晴天の中参進し、

諸事滞りなくご奉仕申上げました。

 

六月後半も

体調を崩さないように

張り切っていきましょう!

末吉、徒然に思う
カテゴリー: 護國日誌
2017年6月14日 水曜日 コメントはまだありません »

こんにちは。

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)ですヾ(@^▽^@)ノ

 

梅雨なのに

なかなか雨の降らない愛媛県。

週末は雨の予報になってますが

水不足にならないか心配しています。

 

さて

昭和十七年六月五日はミッドウェー海戦の日でした。

大日本帝国海軍の戦闘で、

ミッドウェー海戦と

マリアナ沖海戦は決して忘れてはならないでしょう。

なぜなら、

どちらも

戦況を大きく変えた海戦だからです。

 

殊、ミッドウェー海戦につては

装備変更の時間が運命を左右したなどと言われておりますが

いずれにしても

主力空母四隻や熟練搭乗員を失った影響は大きく

それがマリアナ沖海戦へと尾を引きました。

 

もしもあの時、こうしておけば・・・

もしもあの時、タイミングがずれていれば・・・

 

我々の生活も同じじゃないでしょうか?

『もしも』と思うことはたくさんありますよね。

だからこそ、

一つ一つのことをしっかり考え

それを踏まえて行動し

そして後から『もしも』と悔やむことがないよう

我々もミッドウェー海戦から教訓を学び

日々の生活に生かしましょう!

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